山小屋の鐘は「和登の鐘」

〜〜山小屋の鐘の設置背景について〜〜


 

現役・OBを問わず、KGWVの皆さんなら、戸隠山小屋の「鐘」を御存知ですね?

山小屋に着いたら、誰もが「ただ今!」と鳴らす、爽やかな音色のあの『鐘』です。

また山小屋を去る時、誰もが「また来るからな!」と鳴らす、あの『鐘』の事です。

 

我々、昭和43年卒の誰もが、『和登の鐘』と呼んで来ましたが、その由来を余り公にすることなく、設置以来48年の歳月が流れました。

同期の仲間も、昭和40718日に岩子岳で逝った矢野康博君、そして昭和45310日に逝った和登万里さん、平成24年1119日に逝った松森宏行君に続き、平成30831日に山本繁恒君が逝きました。

山本君の見舞いや通夜及び葬儀に集まる同期の仲間から、「今年55年を迎える山小屋がいつまでもあるとは限らない。我々が元気な間にあの『鐘』の設置理由や背景をキチンと残しておくべきではないかなあ・・・」と言う話が出てきました。

そんなきっかけで『和登の鐘』について次代に残すべく、筆を採った次第です。

 

何故、『和登の鐘』と呼ぶのか?

和登万里さんは、昭和394月、社会学部入学と同時にワンダーフォーゲル部に入部。女子のリーダーとして明るい面倒見の良い人柄で同期はおろか上級生にも下級生にも好かれ、愛された女性でした。幼い頃から父・良行氏に教え込まれたスキーは当時の女性としては出色の腕前でした。

 

昭和433月に卒業式を終え、豊中の小林病院に勤務。

明るい未来が待っていた卒業1年後の昭和4410月、突然、当時は不治の病(今でも確実な治療法はない)と言われた『高安(タカヤス)病』に倒れたのです。

当時は勿論、現在も確立した治療法がない難病に指定されている「高安病」と知った時、御両親の驚愕と悲しみは如何ばかりだったでしょうか? 

殊に和登万里さんの幼少時に妹・千里さんを不慮の水難事故で亡くされている父・良行氏の

驚きと悲しみは我々が伺い知れないほど大きく、深く辛い事であった事は想像に難くありません。

 

闘病6ヶ月、死と向き合いながら、明るく、泣き言も言わず病魔と闘い、310日、24歳になったばかりの若い命は天に召されたのです。

12日に自宅で通夜、14日に大阪市西区の立売堀の應因寺でKGWV現役・OB80人を超す中で和登万里さんの葬儀が執り行われました。

丁度、「戦後は終わった!」と言う掛け声の元、大阪万博が開幕されたばかりの時でした。

周囲は万博、万博で盛り上がり、浮かれ上がっている頃でしたが、御両親は悲嘆の底にありました。特に妹・千里さんを亡くし、万里さんに偏愛とも言うべき愛情を注いで来られた父・良行氏は経営されていた「鋲打銃」会社の仕事も手に着かず、悲嘆の底に沈んでおられたという事でした。

 

和登万里さんが亡くなって約1ヶ月、良行氏はあることをキャプテンだったYに相談されます。「万里が愛した戸隠山小屋、足繁く山だ、スキーだ、紅葉だと通ったあの山小屋に、和登万里の鎮魂の鐘を付けさせて貰えないだろうか?」

その思いはYも同じだったので、「諾」と回答して、我々同期と何人かの幹部の方々に話をし、余り大きく「和登」の名前や、鎮魂と判らない様にする条件で設置を約束しました。

 

鐘の製作は仕事柄、父・良行氏が担当され、5月の連休前に出来上がりました。

その鐘と、和登万里さんが可愛がっていたブルドックのゴロ、そしてYを伴って、彼女との思い出の地、北陸や能登、木曽、安曇野を経由して連休の後半に戸隠山小屋に着かれました。

 

鐘には4個のエーデルワイスが彫刻され、目立たぬようにという事で、鐘ではなく、5×15cmの真鍮製の銘板にフランス語と日本語で


  LA CLOCHE DU REQUIEM   鎮魂鐘

   MARI WATO            和登万里

   NEE AU 4.FEV.1946       S21.2.4生    

   MORTE AU10.MARS.1970    S45.3.10


と、刻印してあり、鐘の下に取り付けて欲しい、と言うのが父・良行氏の願いでした。

 

ゴールデンウイークと言う事で、小屋に居た同期のS・K・Oも鐘の設置を手伝いました。

逆L字の金具を壁板に付け、それに鐘を吊り下げるのであるが、なかなか難しい作業だった様です。Yは勿論、S・K・Oが鐘を取り付けている写真が残っています。そこにはやはりゴールデンウイークで山小屋に来ておられたM氏(S39年卒)とK氏(S42年卒)の姿も見えます。

 

この鐘が山小屋に取り付けられた日、それは昭和4554日です。この日から、誰言うとなく我々43年卒同期は、山小屋の鐘を「和登の鐘」と呼び始めました。

それから3年後、和登万里さんの母上は脳溢血で急逝され、その6年後、父・良行氏は肝臓の病で亡くなられました。和登が逝って丁度10年目でした。この時を以て「和登家の血」は永遠に地球上から消えたのです。

 

あの優しく、透き通った鐘の音は、和登万里さんの魂の声と言えるかも知れません。

こんな歴史を持つ山小屋の鐘、「和登の鐘」をこれからも『KGWVの心のふるさとの鐘』として、末永く後輩の皆さんに引継ぎ、大事にして欲しいと思います。  

 

昭和43年卒同期一同 (文責:松田)