登山家 田部井 淳子さん のプロフィール

【略歴】

1939(昭和14年)  9月22日、福島県三春町に生まれる
1962(  37年) 昭和女子大 米英文学科卒業
社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ
1969(  44年) 『女子だけの海外遠征を』を合言葉に女子登攀クラブを設立
1975(  50年) エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、中国名:チョモランマ)に女性世界初の登頂に成功)
1992(平成4年) 女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となる
2000(  12年) 3月九州大学大学院 比較社会文化研究科 修士課程終了(研究テーマ:ヒマラヤのゴミ問題)
現在 年7〜8回海外登山に出かけ、現在35ケ国の最高峰を登頂。
産額環境保護団体・日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト略称:HAT-J(ハットジェー)の代表
今年(2000年)は、1975年にエベレストに登頂してから30周年。

(最近訪れた世界の山々)

1996年 チボリ山(コスタリカ)最高峰、大姑娘山(タークーニャン)5025m(中国)、チョー・オユー8021m(中国)
1997年 サウダ山(レバノン)最高峰、シュアイブ山(イエメン)最高峰
1998年 エグモント山(ニュージーランド)、ガッシャーブルムU峰(パキスタン)
1999年 オリンポス山(キプロス最高峰)、ボベーダ7439m(キルギス共和国)
2000年 ワスカラン6768m(ペルーアンデス最高峰)
2001年 オリサバ5675m(メキシコ最高峰)、ムスターグ・アタ7546m(中国)
2002年 アシニボイン3618m(カナダ)
2003年 アララット山5137m(トルコ最高峰)
2004年 雪岳山(ソラクサン)(韓国)
2005年 オホス・デル・サラド6893m(チリ最高峰)

【著書】

『山を楽しむ』(岩波新書)【最新刊】2002年
『初めての山歩き』(文化出版社)2002年
『エベレスト・ママさん』(山と渓谷社)2000年
『さわやかに山に』(東京新聞出版社)1997年
『エプロン外して夢の山』(東京新聞出版社)1996年

【受賞歴】

1975(昭和50) ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ大賞、朝日体育賞(現在朝日スポーツ賞)
1988(   63) 福島県民栄誉賞第一号、埼玉県民栄誉賞、川越市民栄誉賞、三春町栄誉市民、エイボンスポーツ賞
1992(平成4) 文部省スポーツ功労賞(2度目)
1995(  7) 内閣総理大臣賞
この他 ビッグスポーツ大賞(テレビ朝日主催)、日本フェアープレー賞

【審査会等の委員】

《環境省》  中央環境審議会委員
《福島県》  しゃくなげ大使
《その他》  国立青年の家理事、昭和女子大学理事、尾瀬保護財団理事、ニッセイ緑の財団評議員、
        イオン環境財団評議員、住友生命相互保険会社審議委員他

      人間発見/ひとスクランブル  登山家 田部井淳子
         山に救われ 山を救う  (日本経済新聞2005年8月22日〜26日)

8月22日から26日まで5日間にわたり日経新聞夕刊の「人間発見」人スクランブルに田部井淳子さんの記事が連載されましたので皆様にご紹介いたします。一度に出すのも大変ですので日を置いて順次連載いたします。
楽しみにページを開いてみてください。

【8月22日(月曜日)】@
  ■登山のためにでも何も犠牲にせず
   「山男」の夫の存在に救われる
   環境問題意識、58歳で大学院に入
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ちょうど30年前、女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功した田部井淳子さん(65)は、女性初の7大陸の最高峰登頂者でもある。慎重派150センチほどしかなく肺活量も平均より少ない。男性社会の中で、未踏ルートを切り開いてきた小柄できゃしゃな ”ママさん登山家” はその後も世界各国の最高峰の登頂を続けている。
 私って欲張りなのかもしれませんね。登山のために何かを犠牲にしたくありませんでした。結婚も子育ても、そして趣味も含めて女性ができることはすべてやりたかった。 
 もちろんそれは苦労との交換でしたよ。エベレスト登頂計画の資金集めの時です。1歳の子供がいるので「夜の会合はでられない」と断わると《スポンサーとの話は夜、飲んでいるときに決まるもの。大きなスポンサーがつかないのは子持ちの副隊長のせいだ」と仲間から非難されました。一生懸命やっているつもりだったので、夜、ふとんに入ると悔し涙が出てきましたね。
 登山を自重しよう、と思ったのも子供のためでした。エベレスト登頂直後の取材攻勢に娘がおびえ、外出することさえ嫌うようになったことがありました。
 楽天家とみられますが、くよくよめげるんです。でもそのうち、それでもやらなきゃ、ってむくむく立ち上がるんですが。なんといっても救われたのは夫の存在。「1人では無理でも二人ならできる結婚にしたい」というのが山男だった夫との約束でした。
 エベレスト登頂の打合せで隊員が家に集まって時もむずかる子供を車に乗せて長い間、夜道を走ってくれました。ただ夫の協力に甘えては行けない、と家にいるときは独楽鼠のように動き回りましたよ。
今、心を砕くのは山岳環境の保護。九大大学院で環境問題を学び、エベレスト初登頂のヒラリー卿が代表を務める「ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト」の日本支部代表として活動に取り組んでいる。
五十八歳で大学院に入ったのは余りにも自分がものを知らないという恥ずかしさからでした。環境問題は直ぐに結果が出ない。かつてネパールにリンゴの苗木を贈ったのですが、いいことしたと思っていても逆効果になることがあります。そういう不安があって活動の裏づけになるものが欲しかったのです。
 大学院ではエベレストのゴミ問題をテーマに選びました.私の頃とは違い今は入山ラッシュでまさにゴミ、し尿の山。私たちもごみにはそれなりの気を使いましたが、あの当時は環境保護の意識も低く、登頂記念として酸素ボンベとポットを残してきてしまった。その罪滅ぼしの意味もあります。
 日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラストの主な活動は次世代の子供たちに自然体験を通じて環境を考えてもらうこと。毎年、世界各国の子供をつれて環境登山をしています。自分の足で歩き、目でみて肌で感じる、それが大事です。これまで山から恩恵をずいぶん受けてきましたから、残る人生、わずかでもお返ししたいと思っています。


【8月23日(火曜日)】A
  ■幼少の頃は虚弱体質で運動嫌い
    初めての登山で魅力を肌で感じる
    頂上を目指す喜び、疲れ癒す契機に

 梅と桜が一度に咲く福島県三春町で生まれた。将来、世界的アルピニストになるとは誰も想像できないほど虚弱体質で、運動嫌いだった。
 実家は印刷業。兄二人、姉4人の末っ子でした。小さい頃から小柄で体が弱く、ふだんからへんとう炎で高熱を出したり、ひきつけを起こしたり、肺炎になったりしていました。
 運動は何をやってもぜんぜんだめ。クラスでひとりだけ鉄棒の逆上がりはできないし、跳び箱は最下段も飛べない。球技では人の後に隠れて逃げ回っていました。体育の通信簿はほとんどいつも「2」。
 運動会も苦手でヨーイ、ドンで走る徒競走は恐怖だったですね。でも運動ができないならそれも仕方がない、と最初からあきらめたりしているような少女でした。私がこんな登山人生を歩んでいるなんて小さい頃を知る人はだれも想像できないでしょうね。
 初めての登山体験は小学4年生。担任の先生に連れられて登った那須連峰が少女の心に強烈な印象を残した。
 「今度の夏休みに那須に登山に行く者はいるか」との先生の呼びかけに応じました。私にとって山といえば一面が緑で、段々畑があって桜やツツジが咲くと思っていたのに那須連峰は草も木もない。
 その代わりあるのは砂と岩ばかり。川には水ではなく湯が流れていました。それに下界はあれほど暑かったのにものすごく寒い。何から何まで驚くことばかり。黒板や教科書で習ったものではなく、肌で感じた体験だけにものすごく新鮮だったんです。

 嬉しかったのは山登りはヨーイ、ドンじゃない。ゆっくりでも一歩ずつ歩いていけばみんなと同じように頂上に立てるわけでしょう。ただ苦しくてもだれかが交代してくれるわけじゃない。
 このとき味わった喜び、驚き、満足感が私の登山人生の原点でした。また別な山に登りたいという引き金になりましたが、戦後まもないころ。おいそれといける時代じゃありませんでしたが。
夢を抱いて東京の大学に進学。だが現実はあこがれの生活とは大違い。心身ともに疲れ果て体調を崩したが、再び山が救った。
 「音楽喫茶」「演劇」「銀座」などにあこがれて上京したのですが、姉たちから耳にしていた生活とはまったく違う。テンポについてゆけないんです。地方から出てきたと思われたくない、などという言葉のコンプレックスも重なり、大学構内にあった寮生活ではいつもおどおどしていました。
 そのうち体がそんな生活についていけず、とうとう何も食べられなくなりました。医師の診断は「神経性胃炎」。しばらく郷里に戻り療養しましたが、うじうじしている自分に嫌気がさし、「とにかくもう一度東京にいこう」と結論を出しました。
 大学に戻ってからは下宿で一人暮らしを始めましたが、すっきりしない自分を立ち直らせてくれたのはやはり山でした。友人に誘われ、奥多摩に出かけたのですが、新宿から電車でちょっと離れただけでまるでオアシスのよう。
 心が洗われ、幼いころ自分に自信を持たせてくれたのが登山であったことを思いだしました。頂上を目指して一歩、一歩踏みしめるうちに自分の存在が確かめられ、言葉のなまりなどたいしたことと思わなくなりました。
 山からの帰り、本屋に飛び込み「東京周辺の山々」を買い求め、全ての山を登ってやろうと決心しました。そして毎週末、中央アルプス、八ケ岳、谷川岳と歩くうち、方言への引け目も講義の退屈さもかすみ、いつも悩まされていた微熱もなくなりました。


【8月24日(水曜日)】B
   ■土曜はいつも夜の鈍行で谷川岳に
     「女性だけでヒマラヤ」の思い強まる
     登頂メンバー決める隊長の態度に感心

 大学卒業後、就職したのは欧米の物理論文を編集する日本物理学会事務局。登山を楽しむには理想的な職場で、男性にまじって冬山や岩登りにチャレンジしていく。
 人と話をするのは、幼いころから苦手でしたから接客業は、はなから向かないと思っていました。あまり人と接触しない就職先を選んだのですが、運が良かった。うるさい上司が目を光らせているわけでもなく、都合がつきさえすれば自由に休めました。私の登山好きはそのうち知れ渡り、土曜日には登山用具持参で出社、いつも午後10時12分上野発の鈍行で谷川岳に出かけました。
 冬山や岩場にあこがれ、思い切って山岳会に入ったのですが、初めての岩場体験は感動ものでした。どんな小さなミスでも死ぬかもしれない、という全身がきりきりする緊張感がありましたから。場所によって南無三といいながら登るわけです。指の一本、一本で体を支えながら岩をクリアーしたときの心地よさは言葉では言い表せません。
 ひとつの壁をクリアーすると次はもっと難しい壁を登りたい、という気持ちがふつふつ湧いてくる。山岳会仲間の男性に遅れをとらないようにふだんから走ったり腹筋をやったり。あのころからでしょうね。弱かった肉体が変質したのは。
 山は危険視されますが、不可抗力の事故は都会の中にこそ多いと思う。山では自分が謙虚になり、冷静に判断する限りほとんどの事故は避けられます。
 「女性だけでヒマラヤへ」という思いにかられたのはそのころだった。
 肉体的条件がほぼ同じ仲間でヒマラヤへ、というのがすごく魅力的に思えたんです。男性と一緒に岩登りや雪山に行くとどうしても背伸びをしてしまう。手足の長さの違い、スピードも遅いし、パワーもない。無理してついて行くと余裕がなくなり、とっさの時の動きが悪くなる。それにやはり異性同士では気を使わざるを得ないし。
 同じような考えを持った4人で女子登攀(とうはん)クラブを設立、上野駅や新宿駅で登山姿の女性に恥も外聞もなく声をかけ、二週間後に16人が集まりました。ただ当時、誰もヒマラヤの知識はありません。「日本100名山」で有名だった深田久弥先生に手紙を書いたところ、まだ日本人が未踏のアンナプルV峰を推薦してくださいました。
 1970年、標高7,550mの同峰登頂に成功。だがアタックメンバーを決める際、仲間内でもめるなどほろ苦い思い出が残った。
 海外登山経験があったのは隊長だけ。誰もが未知の体験でした。気負いや期待感からかもしれません。頂上アタックメンバーを決める際、隊内でもめにもめました。最終的に私が選ばれたのですが、はずれた人たちから「どうしてあんな人が選ばれるの」「私は荷揚げのためだけにきたんじゃない」との不満が噴出しました。
 女性隊だからじゃないと思いますよ。実は登頂をめぐる争いは男性の方がもっと激しい。殴り合いになり、前歯を折って帰ってきた、などという話は尽きません。ただそうした事実はほとんど外部に出ませんが。登山は限られたメンバーが極限状態でともに過ごすわけですから時として露骨な感情も出てくる。決して美しいものではありません。
 仲間からいろいろ言われたときは切なかった。神経はずたずたになりましたよ。でも雄大な山を見ると忘れちゃうんです。それにしてもそんなごちゃごちゃした中で決断を迫られる隊長の毅然とした態度には本当に感心しました。それにひきかえ私は八方美人。それまで自分の意見を言う事はあまりなかったのですが、それを機にはっきり発言しようと決意しました。


【8月25日()木曜日】C
  ■エベレスト目指し、資金集めに奔走
    キャンプ地に雪崩、あきらめず登頂成功
    帰国後の大騒ぎに戸惑いも

女子登攀クラブが次に目指したのは世界中のアルピニストがあこがれるエベレストだった。
 ただクラブ内にはすごく戸惑いがありました。まだ1シーズンに1隊しかエベレストに登れない時代。国家的事業で億単位の経費が必要といわれていましたから。私自身がそのときに準備できるお金といえば百十万円の退職金だけ。とてもお話にならない。何とか企業に援助を、と二人一組で丸の内周辺を回る事になりました。
 訪ねると病院の待合室のようなところに入れられるんです.呼ばれて部屋に入って計画書を見せると「女だけで本当にいけると思ってるんですか」と聞かれる。「エッ、子供がいるの。それならそんなことするより家庭をしっかり守りなさい」という人もいましたよ。
 それでも最後に「おそらく不可能でしょうね。でも折角だからお見舞金という形で1万円出します」なんていわれるとすごく惨めで。もう本当にめげましたね。
 結局、新聞社とテレビ局が後援してくれることなり、総予算を4,300万円に切り詰め、15人の隊員が150万円ずつ自己負担することになりました。とにかくできることは節約しかありません。コップは大きいとたくさんついでしまうので小さいものにしよう、とかトイレットペーパーは1回40cmにしようとか、まさに女性ならではの工夫でした。
 予算、装備とも貧弱な状態での挑戦。途中、登頂が絶望視されるアクシデントにも見舞われた。
 第二キャンプで就寝中、巨大な雪崩がキャンプ地を襲ったのです。まるで大津波。私達のテントでは5人が寝ていたのですが、ドッドーッというものすごい音がした直後、まったく身動きができなくなりました。
 そのうち息が苦しくなり、目の前がオレンジ色になりました。二人の子供の顔が浮かび、「ああ、残念だけれどこうやって死んでいくのか」と観念しましたね。「エベレスト登山史上最大の遭難」という新聞記事を家族はどんな気持ちで読むのだろうか、と薄れ行く意識の中で考えました。
 幸いシェルパのテントが無事だったのでまもなく掘り起こされましたが、無理やり引っ張り出されたので筋肉が伸びて2日間立ち上がれなかった。ベースキャンプにいた隊長は「とにかく下りてきて」といいましたが、隊員はパニック状態でしたし、ここで下りたら退却しかない、とあのときは私の「下りない」という意見を通しました。 
 国際婦人年の1975年5月16日登頂。快挙に沸きあがる周囲の反応に戸惑いを感じた。
 第六キャンプを出て6時間40分後、頂上にたどり着いたときは感激というより、「もう登らなくてもいいんだ」というのが正直な気持ちでした。それに「あの怖いところを下らなければいけないのか」という不安もよぎりましたね。
 私は登攀隊長で、誰かを登頂させるため最後までサポートするのが使命だと思い、自分自身が登頂するんだ、という気持ちはありませんでした。ただ、アンナプルナV峰のときとは違い、千メートル以上も標高が高いと疲労感も段違いなんです。隊員は高山病でばたばた倒れていく。隊内の雰囲気は「誰か登ってよ。頼むから」という感じでした。私が最終的に登頂したのは高山病に少しだけ強かったからでしょうね。
 帰国後は、予想をはるかに越えて大騒ぎでした。私達は好きで山に登ってきただけ。何かを発見したわけでも発明したわけでもない。だから面映い感じでした。しかも15人全員でやりとげたのに、登頂した私だけにスポットライトが当たって心苦しかったですね。



【8月26日(金曜日)】D
  ■気がつけば7大陸最高峰に登頂
   余裕ない中高年の登山ブームに苦言
    事前味わえる山の魅力追い続ける

 最近、ブームとなっているセブンサミット(7大陸の最高峰)登頂。この偉業も1992年、女性として世界で初めて達成した。
 私は「挑戦」という言葉はあまり好きじゃありません。良く「限界に挑戦」をテーマに講演を、といわれるのですが、私にはあまりにあわないと思っているし、「女性世界初」といわれてもピンときません。
 若いころはがむしゃらに頂上を目指していた時期もありましたが、次第にその考えは薄れ、世界を回り、その国の自然を味わい、そこに住む人間や文化に出会えるのを楽しみにするようになりました。セブンサミットは、そのうちに達成してしまったという感じです。
 時代は変わりました。各国が威信をかけて遠征隊を送ることは少なくなり、八十年代後半から出てきたのがビジネスとして募集される公募登山隊です。参加費をぽんと払えば登山許可を取ったり、荷物を運んだりという手間をすべてやってくれますし、人間関係の煩わしさもありません。

 セブンサミットも時間とお金とある程度の体力があれば誰でもできる時代です。ただその中でエベレストだけは格別。キリマンジェロと横並びにするのはエベレストに対してちょっと失礼な気がしますね。
 相変わらず中高年の山歩きは盛んだ。内外の一般登山ツアーの引率や雲務めることが多い先達者はこうしたブームに苦言も呈す。
 日本の経済を支えてきた人たちが定年を迎えて自然を楽しむようになったのはよかったと思います。二本の山は世界に比べても本当に美しいですよ。
 ただ日本百名山の名前につられて登るのはちょっと・・・・・。目標を持つのはいいことですが、余裕を持たず、登頂する事だけに目が向いているのは残念です。朝露をふみクモの巣を払いながら歩くのが自然の楽しみですが、百名山は人が多すぎてクモの巣もはりません.。もっと周囲に広がる自然を味わってほしいですね。
 それに中高年の人たちは自負が強いせいか、ツアーで行く場合、若いリーダーの意見をあまり聞かない傾向があります。特に男性の場合、体がきつくなっても周囲に隠し、ぎりぎりになってから打ち明けることが多い。それで結果的に迷惑をかけてしまう。登山道の真中で靴の紐を直したりしているのも目に付くのですが、基本的な山のマナーを守ってほしいと思います。
 夢は世界各国の最高峰登頂。これまで35ケ国に足跡を残した。今でも毎年、海外数ヶ所、国内20ヶ所以上の登山を続けている。
 各国の最高峰を目標にしているのは情報が入りやすいからです。その国にいってみるともっと魅力的な山が他にあるので再び行ってみようということもありますね。
 元気とは言え、私も50代後半から体力の回復が遅くなりました。だから普段から極力、階段を使い、歩き回るようにしています。就寝前のストレッチと腹式呼吸も欠かしません。衰えのカーブをできるだけ緩やかにする事はできるはずですから。人に迷惑をかけないくらい動けるうちはこの生活をずっと続けていきたいと思っています。
 どうして山に登るのか、ですか。それは山の魅力に惹かれてというしかありません。これまでの人生、カーッとしたり、くよくよしたことは何度となくありましたが、そうした感情はストレートに出さず、常に心が穏やかな時に物事の判断をするように努めてきました。それができたのも山にいくと嫌なことをすべて忘れて至福の時が過ごせるからです。山は素晴らしい。いい風景をこれからもうんと見たいですね。